ワトソン博士、お見受けしたところ、 アフガニスタンに行っておられましたね。 (コーナンドイル“緋色の研究“) | |
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déjà vuというフランス語がある。日本訳は、既視感。もともとは、精神医学の用語であって、経験したことがない出来事を再度経験していると感じる病的現象、錯覚を意味する。しかし、最近は、「過去にも同じ現象が生じたではないか」という感覚を表現するのに使われることも多いようである。多分に、揶揄を込めて(注1)。
20世紀は、第1次大戦を皮切りに、ロシア革命、第2次大戦が引き続いた。第2次大戦後、世紀後半には植民地から多くの国が独立し、米国とソ連の冷戦の時代に入った。冷戦時代の産物として、朝鮮戦争、ベトナム戦争が起こった。世紀の末に至ってソ連の共産主義が崩壊、冷戦がようやく終結した。
誰しも今度こそは、長期の平和が訪れるであろうとの期待をもって21世紀を迎えた。しかし、この期待は、テロ組織アルカイダによる2001.9.11のニューヨークに対する同時多発事件で、無残にも打ち砕かれた。米国は、早々に非常事態宣言を発しアフガニスタンへの爆撃を開始、さらに、2002年に入るとイラクへの侵攻も始まった。宣戦布告なき新しいタイプの戦争が開始され、今日に至っている。
このように、地上から戦争が絶えないと、筆者のような高齢者は、幾たびも既視感に襲われる。米国のアフガン戦争(注2)とソ連のアフガン戦争のあいだにも。また、米国のアフガン戦争と現にようやく米軍撤退の目途が付き始めた米国のイラク戦争の間にも。とりわけ、ベトナム戦争と米国のアフガン戦争の間にも。
ところで、さる7月25日に発表されたWiliLeaksによるアフガニスタン戦争に関する米軍の大量情報の暴露記事は、オバマ政権に手痛いショックを与えている。ニューヨークタイムス紙は、いちはやく、このWiliLeaks の情報(すでにAfgan War Diaryとの俗称がついている)について、抑制された筆致で、この文書のもたらすインパクトを解説し、婉曲にアフガン戦争の早期終結を暗示した。40年も前のことになるPentagon Paper(1971年、ニューヨークタイムスに発表された国防総省の機密文書。公式発表と異なり、ベトナム戦争が米軍にとって不利である点を暴露したもの)の内部告発者Ellsberg氏とは、知己の仲であるというニューヨークタイムスのコラムニスト、Frank Reich氏の署名になる記事である。Afgan War Diary発表により、Reich氏が感じたPentagon Paperからの強烈な既視感を主題にした論説だった(注3)。
英国のアフガン戦争 − ワトソン博士、マイワンドの戦闘で負傷
コーナンドイルは、1887年にシャーロックホームズを主人公とした推理小説、「緋色の研究」を発表した。この作品で、ホームズは、退役軍医ワトソン博士と知り合いになる。
初対面のワトソン博士に、ホームズはいきなり、“あなたはアフガニスタンにいたでしょう“と切り出し、ワトソンを驚嘆させる。ホームズ・ファンには、忘れられない台詞である。
英国は、19世紀の30年代から20世紀の10年代に掛けて、3次にわたり、アフガニスタンに出兵、英国・アフガン戦争を繰り広げた。英国殖民地の真珠、インドの安全を確保するため、大英帝国は、北方の大国ロシアとインドの間の緩衝地帯として、どうしてもアフガニスタンを手中に収めたかったのである。
ところが、アフガニスタンは、山岳地帯で剽悍、古代から戦闘に長けているパシュツン族が支配していた国である。パシュツン族の由来は、今でも定かではない。アレキサンダー王の遠征軍とも闘ったことがあるという。
英国は、大軍を繰り出しながらも、アフガニスタンを征服することができなかった。特に、第2次英国・アフガン戦争では、1880年7月27日、マイワンド(Miwand、パシュツン族の根拠地のカンダハル近郊)において約1000名(正確には967名)に及ぶ死者を出し、未曾有の敗北を喫した。「緋色の研究」では、ワトソン博士は、この戦闘で狙撃され肩を砕かれ、従者の助けを受けて命からがら戦線離脱したとのストーリーになっている。
コーナン・ドイル自身は、マイワンドの戦闘に参加した事実はないのだが、この戦闘は、当時の彼に強い印象を与えていたらしい。
マイワンドの戦勝は、パシュツン人の光栄ある歴史として、多くの詩歌により、今日に至るまで彼らの間に伝承され続けているという。
ソ連のアフガン戦争 − 引き続いて起こったソ連共産党政権の崩壊
ソ連は、アフガンの共産政権からの援助要請に応じる形で、1970代の後半から、次第に、同国の共産政権(ソ連が擁立した傀儡政権)とそれに対する反対勢力の内戦に介入した。
米国は、ソ連との冷戦を自国に有利に導くため、反乱ゲリラ部隊に支援した。ムジャーヒディーン(ジハッドを遂行する戦士の意)と呼ばれるこれら反乱軍の主体は、さまざまなアフガニスタンの部族からなっていたが、その主力は、同国最大の部族パシュトン族であった。また、ソ連の侵攻をイスラム教徒に対する攻撃と捉え、外国から応援に馳せ散じる義勇兵も数多かった。サウジアラビアの富豪の御曹司であった。ビン・ラディン氏もその一人である。
軍備において勝るソ連側とアフガンの共産勢力は、頑強なムジャヒディーンの抵抗と米国、アラブ世界からの広汎な支援に対抗できなかった。兵士の士気の低下、ソ連国内での年々高まっていく厭戦気分も、戦争の遂行を大きく妨げた。
1988年後半から、和議を求める交渉がスタートし、ついに1988年5月、アフガン戦争はソ連軍側の全面撤退という形で終了した。
ソ連政府は、この戦争におけるソ連兵動員数は延べ62万人、うち戦死者52,000を出したと発表している。戦争が始まったときの大統領はブレジネフであったが、終結させたのは、ゴルバチョフ大統領である。ソ連共産主義の崩壊は、次期大統領エリチンの下で、1991年に実現した。アフガン戦争終結から、わずか3年あまりである。
アフガン戦争は、米国が期待したとおり、”ソ連のベトナム戦争“となった。しかも、ソ連共産主義政権の崩壊を早めるという大きな副産物を生み出した。
米国のアフガン戦争(1)− 2001年11月から2010年7月まで、9年有余を経てなおも解決せず
2001年9月11日、米国において、旅客機4機がほぼ同時刻にハイジャックされ、うち3機がニューヨークの貿易センタービルに突入、ビルが崩壊し、3000名以上の死者が生じるという大惨事が起こった。
米国は、米国ならびに同盟国の施設に対しテロ攻撃を繰り返し手配中となっているテロリスト、ビン・ラディン氏と彼の国際テロ組織であるアルカイーダがこの一大テロ事件を企画・実行した犯人だと断定した。ただちに、ラディン氏とアルカイーダが潜伏していると見られているアフガニスタンに対する空爆、地上軍の派遣が行われた。テロに対する宣戦布告なき戦争の開始である。同時に米国は、世界のすべての友好国に向けて、テロ組織の撲滅に協力するよう要請した。
米軍とその後投入されたISAF(国際公安治安部隊、米軍も含め43ヶ国、派兵数約71,000名)の目的は、アルカイーダのメンバーを捕捉、殲滅することであった。しかし、2002年初期、その目的で始めたアフガニスタン南部の山岳地帯、Tora Bora地域での戦闘で、ビン・ラディンの逮捕に失敗すると、戦争目的は、アルカイーダをかくまったタリバンのゲリラ勢力の打倒に代わった。ソ連撤退後、パシュツン族を主体として、ソ連に対するゲリラ戦を戦ったムジャヒディーンを主体として、アフガニスタン政府として成立したのが、タリバン政権であった。米国の攻撃は、容易にタリバン政権を打倒したが、タリバンの勢力は、直ちに首都アフガニスタンを去り、ゲリラ戦を展開した。
初期において、ISAFは、圧倒的な軍事力によりタリバン勢力を追い詰めたが、広いアフガニスタンを掌握することはできず、民心は圧倒的に外国軍撤退を望んでいた。2005、6年頃から、タリバンは、都市密集地帯に対する自爆テロと路傍に数多く設置したILD(自動装置で爆発する時限爆弾)により、執拗にISFAに対抗している。他方、タリバンの後を受けて、アフガニスタンの大統領となったカルザイ政権も腐敗が著しく、民衆から評判が悪い。アフガン情勢は、このように硬直したまま、2010年の7月に入った。
米国のアフガン戦争(2)− 2010年7月25日のWikiLeaksによるAfgan War Diary 発表以降
2010年7月25日、米国の内部告発専門のネット、WikiLeaksは、アフガン戦争の細部を記した米軍の機密文書94,000点を一挙に公開した。その内容は、タリバンが予想外に強靭であること、ISAFがタリバンの指導者を狙い撃ちしていること、アフガニスタンの民衆が絶えず、戦闘の犠牲にされていること、さらには、パキスタンの秘密組織が、タリバンに金銭、資材、情報を送り支援している等の情報を大量に含んでいる。
オバマ大統領は、「これら情報は、ブッシュ政権当時に起こったものであるし、すでに報道されているものであって、特に新しい内容のものではない」と冷静な態度を崩していない。
しかし、国防総省の対応は異なり、最初から、この情報流出は戦争遂行不可能な事態を引き起こすものであると、深刻に受け止めていた。8月上旬に至ると、国防総省は、WikiLeaksに対し、情報のすべてを国防総省に返還すること、今後、追加情報の発表をしないことを要求した。WikiLeaksは、これを拒否する構えをとっている。
ジャーナリズムも、WikiLeaksに対しさまざまな論評を加えているが、この大量の内部告発文書の暴露が、米国経済の不況脱出が進まない状況下において、ただでさえ、人気が低下しているオバマ政権に不利に働くことを指摘する点では、共通している。
オバマ氏は、現在、アフガニスタンにおける米軍の軍事行動は、事実上終結したのであり、今後の課題は、2011年7月に設定した米軍の撤退開始の公約を守ることだと述べている。
しかし、2010年に入り、米軍の死者が増えていること、Afgan War Diaryの発表等により、オバマ大統領のアフガニスタン戦争遂行政策は、益々人気が下がっている。USA Todayが8月初旬に行った世論調査では、オバマ大統領の戦争指導について賛意を表したものは、2月の48%から36%に急落した。また、そもそもアフガン戦争を始めるべきではなかったと回答したものが、43%に上っている。またGallupは、今、仮に大統領選挙を行えば、誰が共和党の候補になっても、共和党が政権を握るだろうとの調査結果を出している(注4)。
中間選挙が近い今日、オバマ大統領は、現在の米軍撤兵の期日を変更しないで、初志貫徹できるか、あるいは、アフガン戦争の進め方の抜本的見直しを検討するかの難しい決定に迫られているといえよう。
(注1) | たとえば、2010.8.20、Bloomberg.Com、”Vietnam Déjà vu Grows as Afgan Policy Sputters.“ |
(注2) | 正確には、”米国のアフガン戦争“という表現は誤りである。本稿が、アフガン戦争の経緯をアフガン侵攻を行った主要国ごとに記述したので、このような表現を使ったことをお断りしておく。もっとも、各国のニュースでは、この表現が良く見られる。揶揄を込めて、”ブッシュのイラク戦争”と対比して、”オバマのアフガン戦争”と俗称される場合も多い。 |
(注3) | 2010.7.31付け、NYTimes.com、”Kiss This War Goodbye.” |
(注4) | 2010.8.3付け、USA Today、”Poll::Waning Support for Obama on wars.” |
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