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第2の敗戦からの脱却 - 現実を直視しよう
2008年8月15日号

 わが国は、2回、敗戦を味わったのではなかろうかとの論議が盛んである。2008年8月15日の到来を控え、この論議は、ますます現実味を帯びることになった。
 サラリーマンの給与は下がり続けている。自営業の売り上げは、軒並み減少している。加えて、ガソリン高、食材の値上げである。わが国は、世界有数の富裕国だと思っていたのだが、富裕度を示す指標、人口一人当たりGDPは、2000年の世界3位から2006年には世界18位に下がってしまった。医療保険は改正されたが、今後、老齢者の治療が保証されるかどうか疑わしい。おまけに年金となると、社会保険庁による管理の杜撰さが明るみに出て、国民から大きな批判を浴びている。自然すら狂ってきたようだ。東北地方では地震が起こったし、異常な暑さの中で、集中豪雨が不定期に襲いかかっている。
 それぞれの時代には、独自の雰囲気がある。いかめしく言えば、時代精神(Zeitgeist)というものであろう。好況期で懐が暖かく、将来も生活が豊かになると期待できた1970年代、1980年代は、商店街は活気に溢れ、街行く人の表情に明るさ、生気があった。米国の学者が、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどという題の書物を著し、日本にかなう国はないとまで誉め称えてくれたほどだった。
 わが国の現在の雰囲気は暗く、しかも将来が不安である。中学生の親殺し、若者の無差別殺人といった原因不明の事件が頻発し、われわれはこれに対する処方箋を見出せずにいる。
 過去を振り返ってみると、戦後まもない昭和20年代後半ですら、世相はむしろ今より明るかった。電気冷蔵庫も、電気洗濯機、テレビといった3種の神器も普及しておらず、生活程度は今に比べてはるかに低かった。しかし、将来に夢があった。誰しも、より豊かな未来を信じることができたからである。
 わが国は、本当に第2の敗戦を経験しているのだろうか。筆者は、敗戦の日の天皇の詔勅をラジオで聞いた、今ではさほど数多くない(それでも75才以上の人が1300万人を超えているが)者の一人である。十分長生きをしたが、それでも、生涯に2度の敗戦を味わってから、死にたくはない。わが国は、第2の敗戦に陥りつつあるのかもしれない。しかし、この過程から、なんとか脱却する機会は、まだ失われていないと信じたい。

 前置きが少し長くなり過ぎた。以下、1、われわれは、政府からどのような誤った情報を受け取っているか 2、われわれの品格はどれほど低下しているのか。3、青少年の異常な犯罪が生じるのはなぜかについて、多少、考察してみたい(注1)。


いざなぎ景気を上回る景気は本物だったのか

 2006年10月、成立まもない安倍政権は、景気の好調は2002年10月以来、57ヶ月継続しており、戦後最大のいざなぎ景気(1965年から1970年)を超えたと発表した。ジャーナリズムは、この報道を大きく取り上げたが、同時に、庶民の実感とは食い違いがあるのではないかとも報じた。
 政府発表の根拠は、表1に示すとおり、実質GDP成長率の経年別平均2%程度の伸びであった(表1参照)。

表1 実質GDP成長率(2001年 - 2007年)
20021.1
20032.1
20042.0
20052.4
20062.5

 ところで、実質GDP成長率は、名目GDP成長率をGDPデフレータにより調整した数値であって、名目成長率との間に乖離があることに注意しなければならない。GDPデフレータは、上表のすべての年次においてマイナスであったので、実は、名目成長率は毎年マイナスか、あるいはプラスであってもごく僅少の数値であったのである。これに対し、1960年代後半のいざなぎ景気は、強い内需に支えられ、GDP成長率が2桁を超えた力強いものであった。この期間、物価上昇が続き、名目成長率は、実質成長率を上回っていたが、サラリーマンの給与はインフレ以上に上がった。最近の景気状況とは根本的に異なる。
 福田政権になっても、景気は持続しているとの発表が続き、今日に至った。
 政府発表がどうもおかしいのではないかと感じられたのは、2008年1月の通常国会における経済財政担当の大田弘子大臣の「日本の経済は、もはや世界一流ではなくなった」との発表であった。この発表は、一人当たりGDPにおいて加盟30カ国中18位に転落したとの2006年のOECD統計の内容が明らかになった後で、行われたものである。
 持続的成長が続いているにもかかわらず、わが国の一人当たりGDPの順位がどうしてこれほど急落したのであろうか。まず、次表(表2)に、OECD20カ国の一人当たり名目GDPの金額、順位(2000年および2006年)を示す(注2)。

表2 OECD諸国の一人当たり名目GDP(20位までの国の順位、値。単位:ドル)
2000年2006年
ルクセンブルク(1)49998
ノルウェー(2)37472
日本(3)36790
スイス(4)34667
アメリカ(5)34571
アイスランド(6)30859
デンマーク(7)29989
スウェーデン(8)27277
アイルランド(9)25350
イギリス(10)24639
オーストリア(11)24196
オランダ(12)24185
カナダ(13)23621
フィンランド(14)23544
ドイツ(15)23120
ベルギー(16)22637
フランス(17)21859
オーストラリア(18)20737
イタリア(19)19271
スペイン(20)14422
ルクセンブルク(1)89840
ノルウェー(2)71857
アイスランド(3)53446
アイルランド(4)51421
スイス(5)51306
デンマーク(6)50791
アメリカ(7)43801
スウェーデン(8)42264
オランダ(9)41020
フィンランド(10)39796
イギリス(11)39573
オーストリア(12)39064
カナダ(13)38978
オーストラリア(14)37710
ベルギー(15)37674
フランス(16)35572
ドイツ(17)35368
日本(18)34254
イタリア(19)31444
スペイン(20)27925

 2000年から2006年までの7年間に、わが国は世界第3位の一人当たり上位国から、第18位の低位国へと転落した。わが国は、北欧諸国、西欧主要諸国(イギリス、ドイツ、フランス)は、言うに及ばず、オーストリア、オーストラリアに抜かれ、順位こそ上に位するが、イタリア、スペインと並ぶ国になってしまったのである。
 また、この表でもっとも注目すべきなのは、一人当たりGDPの絶対値がこの期間に下がったのはわが国だけであって、他の17カ国はいずれも向上を示していることである。これでは、順位が急落するのも当たり前である。この事実からすると、2006年10月に政府が行った“景気持続期間はいざなぎ景気を上回った”との発言は、虚偽であるとは言えまいが、いささか誇張に過ぎたものであるといわざるを得ない。
 2007年の数値が、今後、発表されれば、わが国の順位はさらに下がるであろう。すでにジャーナリズムは、わが国は2007年一人当たりGDPでシンガポールに抜かれたと報じている。 
 ついでながら、大田氏の後任者として、最近、経済財務担当大臣に就任した与謝野氏は、景気が弱含みに転じていること、そもそも2007年から、景気はそれほど好調ではなかったと述べ、事実上、景気の持続が終了したことを認めた。


品性が下落したわが国民 - 敬老精神の欠如、嘘言の横行

 昨年中、ジャーナリズムは、企業による虚偽を暴く報道で満ち満ちた。役員たちがマイクを前にして揃って、“まことに済みません”と謝る風景も数多く放映された。頭を下げることだけで済むことではないだろうに。流石に、この数は、本年、多少は減少しているようである。
 企業だけではない。個々人に至るまで、単独で、あるいは結託して嘘を付く風潮が蔓延している。ジャーナリストの岩見隆夫氏は、最近のサンデー毎日の誌上で氏が体験した長野県のさる有名ホテルにおける従業員による虚偽行為を克明に発表しておられる(注3)。
 私自身も、某証券会社との間で類似の経験をした覚えがある。筆者が頼んでおいた重要な情報を知らせないというケースが度重なったので、直属の課長にもクレイムを付けた。しかし、この課長氏は、言を左右にして部下を擁護し、こちらの言い分に耳を傾けなかったのである。顧客の層に応じて、事実を隠蔽してでも、提供する情報の量を変えようとするこの証券会社の営業政策が読み取れた。
 多分、わが国では、無数の類似ケースが日々、生じているのだろう。いつから、日本人は嘘つき上手の国民になったのだろう。
 さて、イタリアといえば、国民に品位がないので、悪評を招いて来た国である。事実、かつてはイタリアへの旅行者は、大なり小なり、詐欺的手口で、様々の被害を受けたものである。
 私は、ここ数年来、イタリア人の社会道徳は著しく向上し、わが国を上回ったのではないかと思う。2年ほど前のことである。フィレンツェから、郊外に向かって長距離バスに乗ったことがある。当初、立っていた5、6人の老人(動作が鈍いため、始発駅での乗車がどうしても遅れる) は、席を譲られることにより、また、バス停で降りる人の座席を勧められることにより、全員が座席に座ることができた。若者たちは、当然のごとく席を老人たちに譲ったし、老人たちは、1人も席を譲った若者に礼を言わずに当然のごとく座席に座った。敬老のエチケットが、これほどまで定着しているのである。すがすがしい光景であった。
 このとき、筆者は、かつて、わが国の中央線の車中で目撃した出来事を思い出ざるを得なかった。釣り皮に掴まり、辛うじてわが身を支えているかに見えたある老人が、前の優先席に座っている若者に対し、障害者手帳を突きつけて、“君、僕は障害者なのだ。席を譲ってくれないか”と懇願したのである。


深刻な青少年層の心の崩壊 - 不可解な親殺し、無差別殺人

 最後に、しかし、決して最小ではなく。肉親殺しあるいは、無差別殺人が頻発するほどにわが国の青少年の心が、病んでいるという事実に触れなければなるまい。
 肉親殺人についていえば、自分の娘、息子に対し教育熱心であればあるほど、被害者になる可能性が強いという点があるので、事態はますます悲劇的である。
 また、無差別殺人についていえば、本人の性格による部分が大きい点は当然であるにしても、自分の将来に対する深い絶望感が、これら犯罪を引き起こしている点が際立つ。
 人は誰しも、周囲と折り合いを付けることに腐心しながら、これに成功すれば、自分に自信を持つ。しかし、これができないとなると自信を失い、この自信喪失が強度になると、コンペンセーションを得るため自殺するか、他人を犠牲にする場合もあるほどに、か弱い動物なのである。このバランスが崩れたとき、多くのものは、自分の非を自覚して、自殺する。一部は、他者を攻撃する行動を取る。
 ここまでは、誰しも、心理学の初歩の知識に照らして理解できるような気がする。しかし、なぜ、わが国において今の時期に、親殺し、無差別の第三者に対する忌まわしい事件が引き続き生じるのかの原因究明は、進んでいない。
 筆者は、ITの発達によるテレビ、VD、ゲーム、メールの過度のやりとりが、青少年の心を破壊しているのだとする一部の論者の意見に同意する(注4)。
 長時間、テレビ、ゲーム、友人とのメールのやり取りに耽る性癖のある子供たちは、次第にバーチャル(仮想現実)の世界が、自分にとって、現実より一層リアルなものとなり、次第に仮想現実の世界を現実の世界と取り違えてしまう。
 そもそも、この種の犯罪事件の先駆となったのは、すでに1980年代後半、宮崎勤が引き起こした連続少女殺害事件であったが、宮崎は強度のロリコンVDのオタクであって、個室に閉じこもって、生活時間の大半をVDの収拾、鑑賞に費やしていたことで知られている。また、ごく最近起こり、今もその衝撃の余波が収まらない6月初旬の秋葉原事件の容疑者、加藤智大も、同様にゲーム、ネット、携帯電話の愛好者であった。
 人対人の人間関係を作ることに失敗して、携帯の自分のブログで殺人予告を行い、SOSを発したが、結局、誰も止めてくれなかったと告白した加藤容疑者の心情は、憐れといえば、憐れである。孤独であって、現実の人間関係では、誰しも相手にしてくれず、最後に頼みの綱とした携帯を通じての訴えも無視されたのであるから。
 たまたま、中国人の楊逸さんが、外国人で初の芥川賞を取ったということで、話題を呼んでいる。早速、その作品「時が滲む朝」を一読してみた。今は、20年前のできごとになった天安門事件を契機にして、中国の一流大学から退学、日本で残留孤児二世と結婚し、日本に生活の根拠を築いた中国青年の「浩遠」が主人公である。ここで描かれている他の中国インテリ層の群像も、日本、米国に楽土を求めた学生、教師たちである。いわば、亡命者文学であるといってよい。
 文学作品として、とりわけすぐれているとは感じなかったが、最近の芥川賞受賞作品が、取り上げるテーマの奇抜さ、社会性を排除し、セックスの描写を売り物にしているのではないかと感じている著者にとっては、久しぶりに、まともな小説に出会えたとの感じを持った。
 この作品自体もさることながら、作品と同時に掲載された受賞者インタビュー、「天安門とテレサ・テンとの間で」は、さらに面白かった。幼児期における下放(文化大革命期における知識層に対する僻地での労働)、高校卒業後の日本への留学、アルバイトをしての日本語学習、大学卒業、就職、日本人との結婚、離婚、自力での2児の教育という苦労が多い自分の生活をユーモア交じりで語った楊逸さんは、「日本人は、真面目でなんでも重く受け止めすぎるのではないか、もっと楽観的で、無神経にならないと生きていくのが難しいところもあるのではないか」との感想を洩らしている。
 2008年川口で父親を殺した女子中学生は、試験の成績が父親に知られることを苦にしての上での殺人だと供述しているとのことである。人を殺すのには、大変な心的、肉体的エネルギーがいる。一方では、苦難を克服して、中国、日本の異文化の障壁を乗り越えて芥川賞を獲得した楊逸さん。他方では、経済的苦労の経験なく親の愛情を受けて育ちながら、表面上、些細な原因で父親を殺してしまった川口の中学生。エネルギーを発散させるベクトルの方向が、対蹠的なこの2件のケースを前にしては、嘆息せざるを得ない。
 ITが及ぼす悪影響の問題もさることながら、日本の青少年問題の根底には、若者の社会に対する甘えがあるのだろう。社会的弱者に対するセイフティーネットは、十分に用意すること。しかし、子供たちには、小さい時から、親も学校も、細かいことに口出せず、もっぱら自立心の育成を養成するのが、最善の教育ではなかろうか。
 最近の初中等の教育の改革は、規則強化で、教師も生徒もの双方を律する方向にあるように見えることが懸念される。生徒は、信頼できる教師を見出した時に、一番、学習が進むのであって、教育問題は、教師の選別(民間人登用大いに結構)と配置に尽きると信じる。ただ、教育が成果を結ぶまでには、時間が掛かる。教育改革がうまく進むと仮定したところで、第2の敗戦を食い止めるに間に合うのだろうか。


(注1)ちょうど1年前、筆者は、安倍内閣退陣直前の政局を背景にして、小泉、安倍政権の傍若無人の法律無視の政策を批判した。2007年8月1日号、DRIテレコムウォッチャー、「神は細部に宿る - 参議院選挙後の断想」。前回の論説と同様に、今回の論説もDRIテレコムレポートの本来の趣旨に沿った内容ではなく、脱線である。ただ、戦時を体験したものとして、8月15日が近づくと、この種の評論、感想を手がけて見たくなる衝動を抑えきれないのである。筆者の年1回のわがままを許していただきたい。
(注2)表1、表2は、鈴木淑夫氏の「日本経済の実力」(岩波ブックレット2008年)による。
(注3)詳しくは、岩見氏の克明なサンデー毎日の記事(サンデー毎日 2008年8月10日号 “たった一合のお酒を巡る怒り”)をお読み頂きたい。要は、同氏が二合の清酒を注文したのに、二合入りのグラスに一合注いだものしか持ってこない。“これは、一合しかないぞ”と念を押したのにもかかわらず請求書には、二合分が記載された。これに抗議を申し込むと、接客に当ったウェートレス、チーフバーテンダーは、口裏を合わせ、事実を歪曲してホテル側の正統性を固執する。最後にレストランの支配人まで、従業員を庇ったというのである。
 ご夫人を同伴しておられた岩見氏に対し、ホテル側がこのような行動に出た原因として岩見氏は、ホテルのチェック機能が働いていないことおよび年配者の軽視の2点を挙げている。信じがたいことであるが、多分、岩見氏の推測は正しいのだろう。それにしても、端倪すべからざる風貌を備えられた岩見氏をなめきったこのレストランの老齢者軽視の行動、詐欺的行為は、見上げたものではある。
(注4)この問題は、一部の学者が研究し、また、識者が警鐘を鳴らしている段階である。研究成果がまとまり、改善策が講じられるまでに至らないか、講じられても、手遅れになる可能性が強い。しかし、子供のときから、ネットとの接触を避け、生身の人との接触を大事にせよとのめ命題は、絶対に正しいと思われる。この点について、啓蒙的な所見を提示している書としては、柳田邦男「壊れる日本人 - ケータイ・ネット依存症への告別」( 新潮文庫)がある。

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