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神は細部に宿る − 参議院選挙後の断想

2007年8月1日号

 最近、「神は細部に宿る」という言葉が、ジャーナリズムでよく使われるようになった。誰が最初に使ったのか諸説あるが、一説によれば第一次大戦の前後にイコノロジー(図像学、記号論理の観点から絵画を考察する)の学問分野を開拓したドイツの碩学、アビ・ワールブルグ(1866-1926)が好んで使った言葉だという。この箴言の解釈もさまざまであるが、著者は、神=真理と解して物事の実相は、徹底的に細部にわたるまで追求しなければわからないという意味に理解している。
 今回の参議院選における民主党の大勝を導きだしたきっかけは、本年6月、同党の長妻参議院議員の追及により明らかとなった5000万件の年金記録の不符合の暴露だった。事実をベースにして、ともかく年金支払いの不正常が正される結果に至ったことは、とりもなおさず、わが国民主主義の発展度合いを示すものとして、画期的なできごとであった。正に、神は細部に宿っていた。
 筆者は、暇に任せて多くのクリッピングを作り、今回の選挙過程をフォローしてみた。この間、戦後60年以上の期間のわが国の政治のありかた、とりわけ、われわれ日本人の法意識の遅れについて、考えさせられることが多かった。
 まだ、参議院選挙結果のインパクトについて、新聞、テレビでの報道が続いているさなかである。そこで今回は、本来の外国電気通信のテーマから離れ、多少、日本政治のありかたについての著者なりの断想を書き記して見た。筆者なりに、細部に神を宿らせる努力もしてみたつもりである。

憂うべき法律、契約無視の傾向

憲法:基本的人権の無視
 つい先日、北九州市で50代のある男性が、生活保護を打ち切られ、「おにぎりを食べたい」との言葉を残して餓死した。憲法第25条の下で、日本国民は最低限の生活を保障されているのにもかかわらずである。生活保護を打ち切る判断を下した北九州市の職員は、本人は同意したといっている。しかし、「病気で働けないのに、市に働けと強制された」との餓死者の記述が日記に残されていたという。この男性の死について、市当局の責任はなかったのだろうか。また、このような事態は今後も起こるのではないか。
 さらに、憲法には、自白を唯一の証拠にして有罪判決を下してはならないとの条文(第38条、第2項)があり、被疑者の人権が保障されている。しかし、それにもかかわらず、依然として、長時間にわたる官憲による取調べにより自白を強要されたという理由による冤罪事件が跡を絶たない。無罪判決も幾件も出ている。戦前ならいざしらず、戦後60年を過ぎても、このような事態が生じるのは、信じがたい。しかも、取り調べ担当者が、特に処罰を受けてもいないらしいのは、解せないことである。

労働法:労働時間、労働賃金の法定化の無視
 労働3権(団結権、団体交渉権、争議権)は、憲法で保障された権利であるが、最近は労働組合への組織率が低くなり、しかも、組合は正規労働者の権利擁護のみに熱心であるため、非正規雇用者の労働条件が著しく軽視されている。
 正規雇用者でも過酷な長時間労働の常態化が続いており、過労死が後を絶たない。労災認定の数も増えているのだが、過労死に至らしめた責任について、雇用者が刑事責任を追及された例を聞かない。産業界、労厚省は、サラリーマンの働き過ぎがもたらしている社会の歪になんら考慮を払っていない。このことは、当面、引っ込められたものの、被雇用者の勤務時間規制を撤廃して、過労死をさらに増加させる方向に作用する可能性があるサラリーマン・エグゼンプション法の制定が計画されていることからも、明らかである。
 さらに、1986年に制定された「労働者派遣法」(1996年に改正)は、ほとんどすべての職業分野における人材あっせんを可能にする内容となっている。たまたまバブル期の後、大企業が正規雇用者を厳しく制限したため、就職できなかった若者たちが、派遣業者を頼って派遣労働者として働くことになったため、この法律は、劣悪な労働条件の下で働かされるワーキングプアを生み出すこととなった。
 法律上問題となる最大のポイントは、同一の労働を提供しながら、あまりにも時間当たり賃金が低いことであろう。「同一労働、同一賃金」の原則は、国際的な労働条件の目標となっている。たとえば、「経済的、社会的および文化的権利に関する国際規約(A規約)」第7条(a)項は、確保すべき労働条件として、"公正な賃金及びいかなる差別もない同一価値の労働についての同一報酬" を掲げている。
 ところがわが国では、経団連会長の御手洗氏が社長を勤めているキャノン社において、数多くの低賃金非正規労働者を雇用している。これでは、何をかいわんやである。

民間企業の附合約款の履行違反
 民間企業における契約内容不履行の事例も数多く発生している。年金記録問題で社保庁が批判されているが、社保庁と同様のメンタリティーは、民間企業でも瀰漫しているのである。
 生命保険会社、損保保険会社において、最近、契約約款を守らない保険金支払不履行が大々的にマスコミで報道されたことは、われわれの記憶に新しい。これでは、民間企業の経営者も社保庁の保険支払いの杜撰さぶりを批判することはできまい。

低所得者に対する逆進的課税

 2007年、所得税から地方税への大幅な税源移譲が行われた。この結果、多くの世帯で地方税が大幅にアップされたとして苦情が頻発している。これに対する政府の説明は、課税水準は変わらないので、所得税+地方税の総額に変化がないというものであった。
 ところが、ここで重要なことは、課税所得200万円を下回る低所得者でも、所得税、地方税、介護保険料は課税され、これを負担しないで済むのは、特別の条件を備えた免除措置適用者のみになったことである。従って、低所得者層では、明らかに税金が増えている。
 そもそも、生活費に食い込む税金は課さないというのは、課税の基本方針であり、筆者も学生時代、財政学の講義を聴いたことを60年後の今でも覚えている。従って、今回の低所得層課税は、財務省が禁じ手を使ったことになろう。これまで、消費税は、逆進性が高いから低所得層に不利となる税金だと批判されてきたものであるが、なんのことはない、すでに所得税、地方税そのものが、逆進性を帯びたものになってしまった。さらに、最近の新聞記事によれば、政府税調では、委員の一人(大学教授)が、消費税に逆進性はないという説(どのように理論構成をするのか定かでないが、これまでの通説に比すれば珍説)を展開しているとのことである。消費税アップ答申の根拠を準備するためであろう。
 さらに、低所得層への介護保険料の過重負担も問題である。低所得者は、介護保険料を負担しているのであるが、少ない年金額から介護保険料を払うため、食費等の経費を切り詰めている老齢者も数多いという。介護保険料を支払っていながら、病人であるのに、介護料金(被介護者の負担は10%)を支払えないため、介護サービスを受けることができない人もいる。さらに、国民健康保険料の負担についても、同様のことが言える。
 先日、狭心症を患っている一人暮らしの老人(73才)の談話がテレビで放映されていた。病院で診断を受け、薬をもらったのだが、その後、通院のお金を工面することができず、ただただ死を待つのみであるということであった。
 この老人(といっても、私と同年齢なのだが)が、インタビューの最後にポツリと、"政府は、私たち老人に用はないのだ" と言った言葉は、哀切かつ痛烈であった。

所得格差の2極化現象

 こうして、所得格差が明らかに進行している。すでに2件の事例を挙げたが、新聞、雑誌等の記事から、格差拡大の記事はいくらでも拾うことができる。また、身近に見聞する事実でもある。
 要は、わが国において、所得が高く、貯金額も多いため、豊かな生活ができるし、子供たちにも十分な教育を受けさせ、まとまった資産を遺せる富裕層と、その日暮しで貯金が持てず、子供に十分な教育を授けられない低所得層への2極化が急ピッチで進んでいる。
 中流所得層は、この2極化の進行の下で層が薄くなりつつある。
 富裕層は、年々、金融資産を増やし、このため、わが国の総体の金融資産は増えている。この資産増は、外国債券の購入(証券、金融機関が取り扱う投資信託を通じるものも含めて)に多く向かっており、今や、日本は個人の外国投資による利子所得で収益を上げる国になっている。第一次大戦前の英国における海外投資の流れに似ていると指摘する学者もいるほどである。
 これに対し、低所得層は、日々の生活の乗り切りにやっとであって、将来への展望がもてない。今や、貯金を持てない世帯数は全体の4分の1に達し、しかも、その数は増えているという。
 わが国では、格差社会の現状、そのもたらす弊害、その対策が議論されているが、格差の拡大は、その底辺において "貧困" を生み出している。

わが国の農業の保護

 農業は、今やGDPの創出において、そのウェイトは低いが、地方過疎化の抑制、自然災害保護、環境保全等の観点からして、その重要性は、今後ますます高まると考える。
 WTO(世界貿易機関)の要求との調和を図れなければならないが、他の先進諸国も大なり小なり行っていることではあるし、補助金の支出は今後も必要である。農業経営の多様化を目指すべきなのは当然である。しかし、老齢化しつつある耕作面積の少ない専業農家切捨てを急速に行うべきではないと考える。
 わが国は、豊葦原瑞穂の国であって、稲作はわが国文化の基本である。わが国の皇室は、今でも稲の豊作を祈る祭祀を行っている。万一、わが国が稲作を現在以上に放棄することにでもなれば、天皇家の存続の基盤すら損なわれるであろう。

美しい国 - ブッシュ大統領にシグナルを送った書物

 安倍首相の「美しい国へ」を熟読した。冒頭から、「リベラル」の定義について解説がある。首相からの説明を受けるまでもなく、「リベラル」は、米国では、民主党主流のイデオロギーであり、ニューディール時代ルーズベルト大統領の思想的系譜を受け継いでいる。安倍首相は最初に、自らはリベラルではなく、『保守主義者』である旨の宣言をして、自民党内でのリベラル派の議員(加藤紘一さんとか、河野洋平さんとか)と思想的立場が異なることを宣言した。
 筆者は、「美しい国へ」の冒頭を読んで、ただちに2005年秋の米国大統領選挙戦の共和、民主両党候補者の演説会の席上でのブッシュ、ケリー両大統領候補の討論会の場面を思い起こした。最低賃金引上げの是非をめぐっての討論であった。弁舌巧みなケリー候補は、最低賃金引き上げの必要性を強調し、訥弁のブッシュ氏は防戦に追い込まれていた。このときブッシュ氏は、いかにも揶揄するような口調で、また、指によるしぐざも混えて、"貴方はリベラルで、しかもそのなかでも左寄りだからな" と応じたのである。
 その後、調べて見てわかったことであるが、特にイラクにおける動乱が続いている米国では、「リベラル」という言葉は、共和党系の人々からは、悪い語感を持った言葉として使われているらしい。
 筆者は安倍首相が、著書の冒頭で、自らをリベラルとは区別して『保守主義者』だと宣言したのは、ブッシュ大統領に対するシグナルでもあった(ひょっとすると国内向けより、米国向けのシグナルが主目的だったのではないか)と推測している。

 本論の締めくくりとして、私の国家観から安倍首相の新保守主義を批判をする。
 そもそも国家なるものは、もろもろの利害関係者のレフリー役を、その主な責務とする。従って、特定の利害関係者の利害を代弁するものとなってはいけないとは、社会政策、経済政策等のもろもろの書物の教えるところである(もっとも、最近の大学の教材のなかには、案外、政策学などは必要なく、規制を撤廃すれば、競争が押し付ける規範(discipline)により、最適の政策が実現されるとの趣旨の記述をしたものがあるのかもしれない)。
 今回、自民党が参議院選挙で大敗したのは、単に年金記録の不備、特定の1、2の閣僚の不適切発言によるものではない。安倍内閣が、本来、政府が果たすべき役割を放棄して、政府=大企業、財界と見られるような政策を取り、また、今後も取るであろうとの懸念を有権者が抱いたからだろう。
 安倍首相は、参議院選挙大敗以降も政権担当の意欲を見せている。しかし、「民の声は、神の声」である。首相が、民の声、神の声に逆らって、果たして自らの信念である「戦後レジームからの脱却」を成し遂げることができるかどうか。筆者には、このような企てこそが、民をも神をも恐れぬ仕業であるように思えるのであるが。

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